2021年4月20日火曜日

PCR ついに

来たか。
2、3日前から胸の中央に違和感があった。

3泊4日、熊野古道を歩く旅、その出発の当日までそんな事になるとは思っても見なかった。

朝、自宅から歩き始めて胸の違和感を感じ、今日はそれが少し強めである事にきづいた。
まあ、すぐにおさまるだろうと思いつつ、小田原から新幹線へ。
のんびりと座席に座っていただけだが、胸の痛みと共に息苦しさが増し、熱も上がって来たようだ。

もしも○✕△ならこのまま進めば撒き散らす事になるかも。。
名古屋で降りると立っているのも辛い。ここは予定を中止して帰るべし、と自宅に戻り保健所に連絡。

保険所で紹介してもらった医院で検査をし、自宅では自主隔離を決め込んだ。
隔離状態では何をするでも無く、Kボタ師匠から借りた蝶図鑑を読みナンプレをして過ごした。

昨年の正月にまさかの中国人とのニアミスで発熱し半月ほど不調だった。だからすでに○✕△にかかっている(ハズ)のだから変異型だとしても二度目の感染があるのか?といぶかりながらも次第に熱も下り胸の痛みも消えていった。

そして検査翌日、陰性の連絡を受け胸をなでおろした。
滅多にないことだけれど、体調万全と過信せず周りをよく見て過ごせということか、老人らしく。。

2021年4月17日土曜日

人生もオンサイト

先日、いつも興味を持って眺めている奄美の写真家のツイッターで、「見慣れない蝶に出会った」と動画で投稿されたその蝶。
これジェイの駐車場にいた奴かな?と気付き確認し「コレじゃないですか。奄美にも亜種が生息するようですが」と送るとまさにそれですとの事で、奄美と少し繋がれたようで嬉しくなった。

蝶繋がりだが前回描いた「奄美の杜」、これをもう少し大きな絵に描こうと思っているが、大きくすると描く動植物をもっと増やして迫力ある画面にする為に絶対に描き入れたいのが蝶。
ツマベニチョウやリュウキュウアサギマダラなど、奄美在来の蝶をもっと知り、画面上に散りばめたいと。。

そこで蝶に詳しいKボタ師匠に蝶図鑑のオススメを問い合わせると快く図鑑と飼育記録、そして「一生勝負」という本のパンフ?を貸してくれた。

マスターズ・・いわゆる頑張る中高年にスポットを当てたこの本には24人ほど、7〜80を越える男女いわゆるジイさんバアさんが若いもんには負けじと頑張る姿をインタビューしており、その中にKボタ師匠もなんと13ページに渡る記事が掲載されているのだ。

紙本だけでなく電子本もあるということでAマゾンであっという間に手に入れたその内容は・・表題もいかにも師匠らしいし、ちょ涙も。若者にも刺激を与えられる内容にしあがっているのでボケる前にぜひドウゾ。

2021年4月7日水曜日

震災10年

自転車での旅は西と東へ。
西は高野山までたどり着いた。
東は未だにいわき、まで。

3.11の震災後、テレビで映し出される惨状にしばし動くことができなかった。
ようやく落ち着きを取り戻してボランティアに出たのは3ヶ月も経った6月だった。

その後只見の豪雨災害で会津や阿賀に行った後、再び陸前へ。

横浜集合のボランティアバスで、帰りに皆んなで話し合った。
この震災が復旧するのはいつになるのだろうか?

3年、5年という予想が多かった。
その中で、一人だけだが10年くらいかかるだろうと。
10年?そんなにかかるもんかと、誰もが思った。


震災10年を経てその復興状況はどのようになっているのだろうか?

いわきからチャリツアーを開始した。
目的は・・原発に近づいてその周辺がどうなっているのか?
そして双葉、相馬など原発に翻弄された地域が今どうなっているのか?それをこの目で見たかった。


福島第二原発には近づけた。
ただ、狭い道路に工事車両が頻繁に往来し、深入りが困難と判断してそれ以上近づくことを諦めた。

周辺道路にはそれなりに建物もあるが、概ね土建業者の派出所的なものが多く、人出は多いものの総じて工事関係者のようだ。

目標を第一原発に変更して相馬を目指す。
しかし、帰宅困難地域に近づくと道路に「軽車両 歩行者は通行できません」の立て看板が。
自転車は・・軽車両って通行出来んってこと?ほんとかよ?と強行突破を目論むも進むその先に警備員が待受け、「ぴぴー」と笛で呼び止められ・・

帰宅困難地域・・厳重にバリケードで施錠され、一歩も入ることができない地域。。
もう朽ち果てるしかない住居がそこにあった。

結局、帰宅困難地域の通過はならず近くの駅から相馬へ。

そして翌日、相馬から仙台へ。
海岸沿いをひた走るも思ったように海を見ることはできない。
周辺はだだっ広く整地され、まるで工場誘致の工業団地を作っているかのよう。

早朝、震災遺構の小学校を訪れた。
2階建てに見えるその学校の全てが津波に洗われたようで、内部はずたずた。
外から何枚かの写真を撮って一回りしたときに、管理人の人が車で現れた。

震災直後、ここに90名がいて全員が助かったんです。
生徒は50人くらいですが、その他に避難してきた人など。
本来なら津波避難はこの先の高台まで10分以上を掛けて避難するのですが、直後の放送で5分後6m、10分後10mという放送で、校長が判断して校舎の最上階の屋根裏部屋に避難したのだとか。

校舎の側面に津波の高さを示す印がしてある。その高さがあと1m高かったら・・
翌日、屋根に登って手を振る生徒に自衛隊のヘリが気が付き、無事に全員救助されたのだとか。そんなことにも気が付かないほど原発事故の報道が優先されていたのだ。

とても恥ずかしくなった。そんな事とも知らず触らぬ神に祟りなし・・と福島を敬遠していた自分が、とても恥ずかしくなった。

周辺はだだっ広く整地されており、そこに生活の香りは感じられないが、当時は1000人ほどが生活していたのだとか。

工業団地と思っていたのだが、実は全て生活を放棄した更地でしかなかったことにがく然。
海の見える素晴らしい土地でも、もうここに住むことなど考えられなかったのだろう。
でも、今はもう7mの防波堤が延々と連なりで海など見ることも叶わないのだが。


大型トラックが高速で往来する道を、その風圧にビビりながら仙台を目指す。
周辺には広大な平地、そして耕作放棄地だろうかソーラーパネルが海のように広がる。
仙台市に入ると・・なんと右折3車線って、これ東京でも珍しい。そんな仙台、伊達政宗ってすげーなというのが唯一の感激だった。






2021年4月1日木曜日

よう言うた!

最近の芸能界、お利口さん的な当たり障りの無い発言が多くてつまらないのですが、カンニング竹山が痛快な一撃を放ってくれました。

一部数字での間違いはあるものの決して的外れでもなく、謝罪要求をされたけれどもこれとて都知事の焦りと怒りをかったとして万々歳の働きでした。

撃沈したとて麻生太郎の上を行く快挙だし、談志が生きていたらきっと速攻で弟子にされちゃうだろうナ。他の弟子は全部クビにしてでも。

こう言う正直者、大好き!