2021年4月7日水曜日

震災10年

自転車での旅は西と東へ。
西は高野山までたどり着いた。
東は未だにいわき、まで。

3.11の震災後、テレビで映し出される惨状にしばし動くことができなかった。
ようやく落ち着きを取り戻してボランティアに出たのは3ヶ月も経った6月だった。

その後只見の豪雨災害で会津や阿賀に行った後、再び陸前へ。

横浜集合のボランティアバスで、帰りに皆んなで話し合った。
この震災が復旧するのはいつになるのだろうか?

3年、5年という予想が多かった。
その中で、一人だけだが10年くらいかかるだろうと。
10年?そんなにかかるもんかと、誰もが思った。


震災10年を経てその復興状況はどのようになっているのだろうか?

いわきからチャリツアーを開始した。
目的は・・原発に近づいてその周辺がどうなっているのか?
そして双葉、相馬など原発に翻弄された地域が今どうなっているのか?それをこの目で見たかった。


福島第二原発には近づけた。
ただ、狭い道路に工事車両が頻繁に往来し、深入りが困難と判断してそれ以上近づくことを諦めた。

周辺道路にはそれなりに建物もあるが、概ね土建業者の派出所的なものが多く、人出は多いものの総じて工事関係者のようだ。

目標を第一原発に変更して相馬を目指す。
しかし、帰宅困難地域に近づくと道路に「軽車両 歩行者は通行できません」の立て看板が。
自転車は・・軽車両って通行出来んってこと?ほんとかよ?と強行突破を目論むも進むその先に警備員が待受け、「ぴぴー」と笛で呼び止められ・・

帰宅困難地域・・厳重にバリケードで施錠され、一歩も入ることができない地域。。
もう朽ち果てるしかない住居がそこにあった。

結局、帰宅困難地域の通過はならず近くの駅から相馬へ。

そして翌日、相馬から仙台へ。
海岸沿いをひた走るも思ったように海を見ることはできない。
周辺はだだっ広く整地され、まるで工場誘致の工業団地を作っているかのよう。

早朝、震災遺構の小学校を訪れた。
2階建てに見えるその学校の全てが津波に洗われたようで、内部はずたずた。
外から何枚かの写真を撮って一回りしたときに、管理人の人が車で現れた。

震災直後、ここに90名がいて全員が助かったんです。
生徒は50人くらいですが、その他に避難してきた人など。
本来なら津波避難はこの先の高台まで10分以上を掛けて避難するのですが、直後の放送で5分後6m、10分後10mという放送で、校長が判断して校舎の最上階の屋根裏部屋に避難したのだとか。

校舎の側面に津波の高さを示す印がしてある。その高さがあと1m高かったら・・
翌日、屋根に登って手を振る生徒に自衛隊のヘリが気が付き、無事に全員救助されたのだとか。そんなことにも気が付かないほど原発事故の報道が優先されていたのだ。

とても恥ずかしくなった。そんな事とも知らず触らぬ神に祟りなし・・と福島を敬遠していた自分が、とても恥ずかしくなった。

周辺はだだっ広く整地されており、そこに生活の香りは感じられないが、当時は1000人ほどが生活していたのだとか。

工業団地と思っていたのだが、実は全て生活を放棄した更地でしかなかったことにがく然。
海の見える素晴らしい土地でも、もうここに住むことなど考えられなかったのだろう。
でも、今はもう7mの防波堤が延々と連なりで海など見ることも叶わないのだが。


大型トラックが高速で往来する道を、その風圧にビビりながら仙台を目指す。
周辺には広大な平地、そして耕作放棄地だろうかソーラーパネルが海のように広がる。
仙台市に入ると・・なんと右折3車線って、これ東京でも珍しい。そんな仙台、伊達政宗ってすげーなというのが唯一の感激だった。






0 件のコメント:

コメントを投稿